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雑記 2013年7月3日

情報伝達と人間のコミュニケーション

以下の文章は、情報処理センターのサイト内にあるコラム『情報の糧』(2008年7月)に書いたものを若干手直ししたものである。センターのサイトで埋もれたままになるのももったいないと思い、こちらにも載せておくことにした次第である。


『みる わかる 伝える』(畑村洋太郎)という本がある。著者の畑村氏は「失敗学」の提唱者であり、『直観でわかる数学』などの著作もある有名な機械工学者である。私は、『失敗学のすすめ』の頃から、氏の著作でずっと勉強させてもらっているのだが、今回の本は、(技術的)知識の認識・理解・伝達に焦点を当てた優れた認識論の書となっている。しかも、難しい用語や単なる抽象論を積み重ねるだけの議論ではなく、著者自身の実体験を踏まえた大変わかりやすい文章になっており、中学生でも一気に読めてしまうほどの読みやすさである。(実際、私も中学生の息子に読ませたが、ハマって一日で読み通してしまったくらいである。)それだけ読みやすい本なので、ここでその内容を紹介するなどという野暮なことはするつもりはない。皆さんには、ぜひ一冊購入して読んでいただきたい。

では、このコラムで何を論ずるのか?

畑村氏の本の中で、「伝える」ことに関して取り上げられていた内容を踏まえて、コンピューターやネットワークにおける物理的なレベルでの情報伝達と、人間同士のコミュニケーションの違いについて考えてみたいと思う。結論を先に端的に言っておくならば、物理的な情報伝達では、伝達内容がすべて伝わるのが当たり前だが、人間のコミュニケーションでは、伝わらない部分があるのが当たり前である、ということである。

ここで、物理的な情報伝達というのは、発信者が発した伝達内容が物理的に別の形に変換され、何らかの媒体を通って受信者の元に届き、元の形に変換されるという過程のことを指している。例えば、電子メールというのは、現在の我々にとってほとんど無くてはならない通信インフラになりつつあるが、これは発信者がコンピューター上で入力した文字情報が、デジタル式の電気信号に変換され、受信者の元に送られ、受信者のコンピューター上で元の形に戻されてディスプレイ上に表示されるという仕組みになっている。この過程では、発信者が送った文字情報は(通信の途中で不具合が起こらない限り)過不足無く、そのままの形で受信者の前に再現される。

情報が媒体に合わせて物理的に変換されつつも受信者にそのまま正確に伝わる、という仕組みは電子メール以前にも、電話やファックスという、現代人にとってはお馴染みの形で実現されてきた。そういう仕組みに慣れてしまっているせいだろうか、我々はともすると、人間どうしのコミュニケーション、つまりアタマからアタマへの情報伝達においても、伝達内容はすべて相手に伝わるのが当然、或いは、伝われば相手がそれを十分に理解するのが普通だ、というふうに思い込んでしまいがちである。しかし、ここに大きな落とし穴がある。人間どうしのコミュニケーションは、上に挙げたような物理的な情報伝達とは本質的に異なった面を持っているからである。

その最も端的な例が言語を用いた情報伝達である。言語は、人間がアタマの中に思い描いた様々な事柄(情報)を他人に伝えるための非常に優れた手段であり、その最大の特徴は伝達内容の抽象化というところにある。つまり、具体的な情報が一切捨象されてしまうのである。例えば、私はこの文章を自分の研究室のパソコンで書いているのだが、「研究室」や「パソコン」といった単語は、その対象物の具体的なあり方(e.g. 私の研究室がどこにあって、どのくらいの広さで、どのくらい雑然としているか、また、パソコンはどのメーカーのどの機種なのか)を何も伝えていない。にもかかわらず、この文章をお読みの方々の中に、「私はこの文章を自分の研究室のパソコンで書いている」という文の意味がわからない、という方はいないであろう。

具体的な情報は何も伝わっていないのに、文の意味がわかったと感じられるのはなぜだろうか?それは、言語が「研究室」や「パソコン」という類につけられた名前(=概念)でもってその内容を伝達するからである。言語を受け取る側はこの概念を手掛りに、自分の中に蓄えられている「研究室」なり「パソコン」なりの一般的なイメージを思い浮かべることで、文の意味解釈を行なう。もちろん、私の研究室を訪れたことがある人は、更に具体的なイメージを思い浮かべることができるであろうが、そうでない人はあくまで一般的なイメージのままで満足せざるを得ない。しかし、そういう概念レベル(類のレベル)の理解であっても、「文の意味がわからない」という感覚は持たないのが普通である。

そして、ここにこそ、先ほど述べた大きな落とし穴があるのである。それは、相手の発言を概念レベルで理解すれば、それで、その内容をすべて理解したことになる、という思い込みである。具体的なことはほとんど何もわかっていないのに、わかった気になってしまうのである。これは喩えてみるならば、海の上に頭を出している氷山の一角を見て、その姿だけで何となく氷山のすべてを見て取ったと思い込んでしまうようなものである。本当は、水面下の巨大な拡がり、つまり具体的な情報を、受け手の方が言語とは別の経路で独自に補わねばならないのに、である。

まあ、買い物だとか食事だとかといった日常的な事柄に関するコミュニケーションであれば、上に述べたようなことを特に意識する必要はあまりない。お互い日常生活を通じて共通の事物にたくさん接しているので、そこから具体的な情報を補うことがすぐにできるし、それができなくても、重大事を招いたりする可能性は小さい。

が、しかし、我々が大学で行なっている教育活動、つまり高度な知識や技術を伝達する行為となると、話は変わってくる。大学の授業の大半は講義という形をとっており、そこでの情報伝達手段の中心は言語である。ということは、教えるべき内容を概念レベルでのみ伝えてそれでおしまい、となってしまう可能性が常について回るということである。もちろん、これを補うために視聴覚教材や実験・実習・調査などといった指導形態ができるだけ幅広く活用されねばならないわけだが、そもそもそれ以前に、言語による情報伝達というのは、それ自体としては概念レベルの情報伝達でしかなく、その中身をなす具体的情報を学生が身につけることができるようなフォローアップが別の形でなされないと、十分な情報伝達にはなり得ない、ということを教員と学生の双方が明瞭に自覚しておく必要があると思われる。

では、最初に述べた畑村氏の本の中で、この問題に対してどのような対策が提案されているか?それはぜひ、この本を手に取って御自分で御確認いただきたいと思う。

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