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古賀恵介の部屋

雑記 2016年7月02日

コンピューターは人間を支配できるか?

またまた、久しぶりの更新になってしまった。これも、情報処理センターのコラム『情報の糧』につい先日書いたものなのだが、私が、字数制限など全く無視の掟破りの長文を書いてしまったためか、一番言いたかったところをバッサリと削除された形で掲載されてしまった。せっかく書いたのに勿体ないので、こちらに載せておくことにする。


人工知能に関する話題で最近大きなニュースになったのは、このコラムの5月分担当の松永先生も触れてらっしゃったAlphaGoの話であろう。世界でもトップレベルのプロ囲碁棋士と5戦して、4勝1敗で圧勝してしまったことは、(少なくとも、囲碁や将棋に夢中になったことがある者にとっては)大きな衝撃であった。しかも、AlphaGoに関して見逃すことができないのは、このプログラムが、ディープラーニングと呼ばれる最近注目の人工知能方式で動いていたことである。

ディープラーニングとは、(別にその道の専門家でもない私がエラそうに言うのも何だが)ニューラルネットワークと呼ばれる、人間の脳で行われる情報処理を模して設計されたシステムで動く人工知能の学習機構である。従来からのプログラムのように、課題を処理するための仕組みを予め人間が考えて仕込んでおくのではなく、具体的な課題とその正答をプログラムに与えて、試行錯誤の学習を繰り返しさせながら、自力で正答に辿りつけるようになるよう自己チューニングさせていく、というものである。いわば、自分で学習しながら賢くなっていく、という、何とも"人間的な"学習システムなのである。このようなシステムは既に画像・手書き文字や言語音声の認識などに実用化されている。

こんなニュースを聞くと、そのうち人工知能がどんどん賢くなっていって、最終的には、映画のターミネーターで描かれていたような、機械が人間を支配(或いは駆逐)するようになってしまうんじゃないか、なんてことをどうしても想像してしまうであろう。果たしてそのような世界が本当にやってくるのか?簡単には答えが出ない問題である。だが、もし、機械が人間を支配するようになるとしたら、そこに辿りつくためには、機械はどのようなハードルを越えなければならないか、ということをちょっと考えてみるのも一興ではなかろうか。

人工知能と人間の認識活動との違いとしてよく取り上げられるのは、融通性や創造性である。基本的に現在のコンピューターは、所与の課題を予め決められたやり方で処理するようになっている。決められた手続きでは解決できない状況に置かれたとき、その状況を分析して、違うやり方に切り替えたり、新たな解決方法を模索・発見するといったようなことは、コンピューターにはできないこととされてきた。しかし、ディープラーニングのような学習上達型の人工知能が出てきたせいで、その状況は打ち破られつつあると言えるかもしれない。今のところは、ディープラーニングといえども、予め人間が正解付きの "学習教材" を用意してやらなければならないわけだが、冒頭に述べたAlphaGoの学習形態では、AlphaGoはプログラム同士の対戦を通じて強くなっていっているし、最終的には、碁というゲームの範囲内では、人間を超えるような融通性と創造性を発揮している。また、音楽や絵画でも、巨匠の作品の "学習" を通じてそのスタイルを身につけ、専門家をも瞠目させるレベルの見事な"作品"を創り出す実験が行われているそうである。そうなると、融通性・創造性は人間の専売特許などとは言っていられなくなるのかもしれない。

その一方で、この種の議論であまり取り上げられない一面もある。それは何かと言えば、生物としての人間と機械の最大の違いである自己修復能力である。生物には、疲労したり、病気になったり、怪我をしたりしても、(ある程度までは)それを自分の力で修復する能力がある。生命の本質が継続的自己更新、つまり自分で自分を作り直し続けるということだからである。そして、生物の身体の物質組成もそういうことを可能にするような柔軟で可塑的な有機物質で出来上がっている。これに対して、現在のところ、機械を構成する素材は金属やプラスチックや合成樹脂などであり、これらが『ターミネーター2』に出てきた新型ロボット(T-1000)みたいに変幻自在に自己を作り変える、というような仕組みには(幸か不幸か)なっていない。いかに機械が人間を支配しようとしても、機械の "身体" は時間がたてば劣化して行ってしまうので、メンテナンスや修理が必要となる。人工知能を持った機械システムはそういったことを人間の手助けなしにできるようになるだろうか?

こんなふうに考えてくると、人工知能に対する人間のアドバンテージって、高等知能なんかよりも、むしろもっと泥臭くて、生物としては最も原初的な部分、すなわち「生き残る」ということに関わる部分なんじゃないだろうか、と思えてきてしまう。そう、我々に繋がる数十億年にもわたる生命進化の連鎖は、地球規模の大絶滅を何度も乗り越えて来ているのである。生命をナメちゃいけない。

さて、みなさまはいかにお考えだろうか?

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更新情報

2016年9月12日NEW
ページデザインを一新しました。
2013年7月1日
言語論下のページを改訂しました。
2009年11月23日
認識論下のページを改訂し、社会と文明共有認識を追加しました。
2009年11月12日
子育て認識の自由性を追加しました。
2009年11月9日
認識論を追加しました。