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雑記 2009年5月22日

こちら、フルーツパフェになります

物を差し出すときや紹介するときに「~になります」という言い方は、レストランや喫茶店などでよく耳にする。この言い方は、文字通りに取ると“間違い”になってしまうためか、嫌いだという人もいるようだが、では、なぜこの言い方がそれなりの妥当性をもって流通しているのか、また、「こちら、フルーツパフェです。」と言うのとは微妙な違いがあるようにも思われるが、その違いは何なのかを説明してみよ、と言われると、多くの人は困ってしまうのではないだろうか。しかし、実は、この「~になります」は、主観性の投影とでも言うべき意味現象の一つの現れであり、決して間違った言葉遣いなどではないのである。

通常の動詞は、対象物の動作や状態を表す。だから、「Aになる」と言えば、普通は、「AでなかったものがAに変わる」という意味である。従って、目の前に出された物が手品か魔法でも使ってフルーツパフェに変わるのでなければ、「フルーツパフェになります」いう言い方はおかしい、という意見も確かに頷けるような気がする。

しかし、次の例を見ていただきたい。

  1. ここから森林公園までまっすぐ道が伸びている。
  2. その道は川の手前で大きく曲がっている。

「伸びる」というのは、短かったものが長くなる変化を表す動詞であり、「曲がる」はまっすぐだったものがそうでなくなる変化を表す動詞である。では、1 の道はもともと短かったのが長くなったのだろうか?また、2 では、かつてまっすぐだった道が地殻変動か何かで折れ曲がってしまったのだろうか?もちろん、そうではない。これらは、道自体に起こった変化を表しているわけではなく、単にその形状を述べているに過ぎないからである。では、なぜ「伸びる」や「曲がる」のような変化を表す動詞が用いられるのか?

それは、これらの動詞が、道の形状を辿る話し手の視点の動きを反映する表現になっているからである。単に「まっすぐな道がある」とするのではそのような視点の動きを表すことはできない。しかし、「伸びている」という動詞をそのような意味に転用することで、今いる場所から森林公園へと視点を動かしながら道の形状を辿っていく話し手の認識のあり方を表すことができるのである。「曲がっている」の方も同様のことが言える。つまり、対象物そのものの変化を表すのではなく、対象物の形状を捉えていく視点の動きを投影する用法が、これらの動詞の意味拡張として慣用化しているということである。

このような意味拡張は、日本語に限ったことではなく英語にも見られる。認知言語学でよく取り上げられる英語の例にも似たようなものがある。

  1. a. The road goes from Chicago to Milwaukee.
    b. The road goes from Milwaukee to Chicago.
  2. The road winds through the mountains.

3a では Chicago から Milwaukee へ、3b では逆に Milwaukee から Chicago へと視点を走らせる様が動詞と前置詞の組み合わせで表現されているし、4 では、山間部を曲がりくねった道の形状を捉える視点の動きが wind という動詞に投影されて表されている。

さらに言うと、英語の場合、動詞のみならず、前置詞の意味の拡がり方にも主観性の投影現象が見られる。

  1. a. The plane flew over the hill.
    b. They live over the hill.
  2. a. The children walked across the street.
    b. The children are standing across the street.

5a, 6a では、前置詞は動詞が表す物理的な動きの経路を表現している。これが各々の前置詞の基本的な意味である。しかし、5b, 6b の前置詞は、物理的な動きの経路を表しているわけではない。主語の人物がいる位置を特定するための視点の動きの経路を表しているのである。それゆえ、「丘の向こうに住んでいる」「通りの向いに立っている」という意味になる。さらに、この b の表現は、話し手の視点がこの位置関係をどこから眺めているか、ということも同時に含意している。話し手の視点は最初「山のこちら側」「通りのこちら側」にあり、そこから移動して山や通りの「向こう側」にある場所を特定するというわけである。

では翻って、「フルーツパフェになります」はどのような視点の動きを反映しているのであろうか?

「~になる」はそもそも空間移動の様を表す動詞ではなく、対象の状態変化を表す動詞である。であるとすれば、何らかの“状態変化”が投影されているはずである。それは何か?それは、聞き手の目の前にフルーツパフェが提示されるという変化である。話し手にとってはもともと手元にあるものなのだから、何ら変化ではないが、聞き手にとっては、目の前に商品が提示されることで状況認識のあり方が変化することになる。つまり、「フルーツパフェになります」は、話し手が聞き手の立場に視点を移して、その認識変化の様を述べているのである。言わば、相手の立場に立った表現なのである。だからこそ、(この言い回しへの好き嫌いは別にして)

  1. こちら、フルーツパフェになります
  2. こちら、フルーツパフェです。

を比べると、「~になります」の方が丁寧な響きがするのである。

このような意味の主観性に関わる現象が理論言語学の表舞台で堂々と取り上げられるようになったのは、認知言語学が言語研究の主流の一角を占める真っ当な方法論として“認知”された、ここ十数年のことであるが、実は、こういうことは、四十年以上も前、三浦つとむが言語過程説を展開する中で積極果敢に論じていたことでもあるのである。そのことは、日本人の言語研究者には是非とも銘記しておいて欲しい事柄である。

補 足

因みに、日本語のタに見られる以下の b の用法も主観性の投影の一種と考えてよいと思われる。

  1. a. かつてここには大きな家があった。
    b. (家を探していて)あ、あった!
  2. a. 昔はこの辺からも富士山が見えたんだけどね。
    b. ほら、富士山が見えたよ。

a とは違って、b の例では、「家がある」「富士山が見える」という状況は過去のものではなく、まさに今現在のものである。にもかかわらず、「あった」「見えた」という言い方がOKになる。これは、話し手にとって対象が見えない状態から見える状態へ変化した、つまり話し手の認識のあり方が変化したことをタに投影する形で表している、と考えることができるのである。(英語だと、こういうところで過去形や完了形を使うことはできない。)

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