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雑記 2008年8月14日

ラ抜き言葉にサ入れ言葉

前回は個別の語句の誤用を取り上げたが、文法レベルの誤用として昔から話題に上るのが、かの有名なラ抜き言葉であり、最近よく見られるようになってきたのがサ入れ言葉(e.g. 読ませていただきます vs. 読ませていただきます)である。どちらもマスメディアで取り上げられるときには、単に「ラを抜く」とか「余分なサを入れる」という現象面だけが注目されてしまい、その背後にある“誤用の構造”がきちんと解説されることはない。以下の説明は、専門家にとっては常識レベルの事柄だが、一般の方々には意外と知られていないものなので、ここで取り上げるのもそれなりに意義のあることであろう。(少なくとも、私が毎年持っている言語学概論の授業で尋ねてみても、学生たちは(みな人文学部の学生であるにもかかわらず)ほとんど知らない。)

この二つの現象の背景にあるのは、日本語の動詞が活用に関して、大きく五段活用動詞と上下一段活用動詞の二つのタイプに分かれるという事実である。(その他に、「する」「来る」という変格活用のものがあるが、それはここでは置いておく。)

活用形未然形連用形終止形連体形仮定形命令形
五段活用ない
ますこと
上一段活用ないますきるきることきれきろ
下一段活用ないますべるべることべれべろ

動詞(未然形)に使役の助動詞をつけるときには、本来なら、五段活用動詞にはセル(e.g. 読ませる)を、一段活用動詞にはサセル(e.g. 食べさせる)をつける。サ入れ言葉は、この両方をサセルに統一してしまおうとする誤用なのである。特に、「(さ)せていただく」という使役+謙譲の複合謙譲形になった場合によく起こるようである。

  1. 子供に本を読ませる/×読まさせる。
  2. 御著書を読ませていただきます/??読まさせていただきます。

ただここには、使役助動詞の形を一つに統一してしまおうとする志向性があることはもちろんだが、2 のケースの場合、全体が謙譲表現なので、助動詞の音節数を増やすことで謙譲の気持ちをより強く出したいという意識も働いているのではないかという気がする。というのも、「読ませていただきます」だと、何となく形が“軽い”という感じがして、丁寧度を引き上げるために思わずサを入れたくなってしまうという気持ちがわからないでもないからである(私一個人だけの感想なのかもしれないが)。

ラ抜き言葉の場合には、更に複雑な背景がある。それは、「可能」表現形の独立化ということである。一般に国語教科書文法では、(ラ)レルには「受動・尊敬・自発・可能」の四つの意味があるというふうに教わる。(現在は変わっているかもしれないが、私が中学校・高校の頃にはそう教わった記憶がある。それから、「自発」というのは「思われる」「感じられる」に限定された意味なのでここでは問題にしないことにする。)ところが、実際の用法を見てみると、五段活用動詞+レルが「可能」の意味を表すことはほとんどない。

  1. ×この本は難しすぎて、小学生は読まれない。 (cf. 小学生は読めない)
  2. ×小学生が読まれる本 (cf. 小学生が読める本)

これは、( )内に挙げているように、「可能」の意味だけを表す専用の形として、五段活用動詞の語尾を「eる」という形に変えて下一段活用させる、特別の活用形が発達したためである。これを可能形活用と呼んでおこう。(e.g. 読む ⇒ yomu ⇒ yomeru ⇒ 読める)

活用形未然形連用形終止形連体形仮定形命令形
五段活用ない
ますこと
可能形活用ないますめるめることめれ

(但し、「行かれない」を「行けない」の意味で容認する人は年配者の間にかなりいるようである。しかし、そういう人でも、3 や 4 などは容認できないのではないだろうか。)

ところが、一段活用動詞+ラレルの方を見てみると、こちらは「可能」の意味が保持されたままである。

  1. このお菓子は辛すぎて、子供は食べられない。
  2. 子供が食べられるお菓子

つまり、五段活用動詞では「可能」の意味を表す専用の形が独立化しているのに対して、一段活用動詞では、「受動・尊敬」とともにラレル形の中に同居したままで、この二つのタイプの動詞の間で、意味と形の対応関係に平行性がなくなってしまっているのである。

五段活用動詞 読む読まれる
(受動・尊敬)
読める
可能
一段活用動詞 食べる食べられる
(受動・尊敬・可能

そこで、いわゆるラ抜き言葉の登場となる。この形は、ちょうど五段活用動詞に「eる」をつけたのと同様に、一段活用動詞に「eる」をつける(e.g. taberu ⇒ tabereru)ことによって、可能の意味だけを表す専用の活用形を作った結果なのである。(だから、決して「ラレルからラを抜いた」ということではない。)

今のところ、このラ抜き形はかなりの一般性を獲得しているものの、日本語の正用法としての地位を掴み取るところまでは行っていないと言っていいだろう。それは、5-6 のようなラレル形からまだ「可能」の意味が駆逐されるに至っておらず、多くの日本語話者の言語規範意識の中でラ抜き形とラレル形が競合しているからである。(実は私もそうだったりする。)しかし、ラ抜き言葉が嫌いだという層には残念なことだが、ラ抜き形が正用法化する方向性は揺るがないように思われる。なぜなら、それを支える構造的必然性(可能表現形の独立化)が背景にあるからである。

以上述べてきたように、ラ抜き言葉もサ入れ言葉も、五段活用動詞と一段活用動詞の間に平行性を保とうとする志向を背景としているという点では共通している。ただ、サ入れ言葉がかなり現象的・表面的な平行性を志向するものであるのに対して、ラ抜き言葉の背後にある動詞活用の構造的変化はかなり強度の必然性を備えたものであると言えるのではないだろうか。

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