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雑記 2008年8月5日

誤用の構造

先日、テレビや新聞などで“日本語の乱れ”として、いくつかの慣用表現の誤用の問題を取り上げていた。中でも、私自身もドキッとさせられたのは「憮然」と「檄を飛ばす」についてであった。ニュースを御覧になった方はご存じだろうが、前者は「失望して落胆している様子」を、後者は「自分の意見に同意を求める」の意なのだそうである。実は私も、多くの方々と同様、前者は「腹を立ててムスッとしている様子」、後者は「叱咤する」ぐらいの意味で理解していた。(ただ、前者について言えば、「思い通りにならなくて不満な様子」という意味もあるらしく、これなら、「腹を立てている」という意味にある程度結びつく感じはする。)

このような誤用は端的には無知から来るもの(だから、私自身も誠にもって恥ずかしい限り)なのだが、ただ、誤用が起こるときには、そこにそれなりの理由がある場合が多い。その最たるものが、語句の非分析的再解釈である。これは要するに、複合的語句の意味を解釈するときに、その部分を成す要素の意味を考えずに、全体に対して何となく当てはまりそうな意味を押し付けてしまうことである。例えば、 「憮然」という語は「憮」と「然」という二つの部分からなっており、「然」が「様子」という意味であることは自明なので、あとは「憮」の意味を正しく捉えれば、この語の本来の意味(心が無い?)が分かるわけである。ところが、我々が日常使う日本語の語彙の中に、「憮」という字が出てくるフレーズは他にはない。つまり、「憮」の本来の意味が何であるかという知識を、他の語彙から補うことができないのである。そうすると、「憮然」という語を本来の意味で使うようにみんなが気をつけていないと、そこに別のもっともらしい解釈が入り込んでくる余地が生まれるのである。

「檄を飛ばす」についても同じことが言える。「檄」とは、「自分の主張を述べて同意を求め、行動を促す文書」のことで「檄文」とも言うそうだが、かつて日本中の大学を騒乱の渦に巻き込んだ学生運動が遥か遠い過去のものとなり、デモやアジ演説の嵐が消え去ってしまって久しい今日の社会では、そもそも檄文なんてもの自体が博物館行き寸前になってしまっている。(旧帝大系国立大学や伝統ある有名私大のキャンパス内でなら、今でもそれらしきものにお目にかかることもないではないが。)つまり、「檄」という語の本来の意味が自然な形で一般人に浸透する経路が日常生活の中から失われてしまっているのである。となれば、「檄」という言葉の本来の意味から離れた解釈がこのフレーズの中に入り込んでくる余地があるということである。

加えて、何とも都合のよい(?)ことに「憮然」も「檄」も発音上は /b/ と /g/ という有声破裂音で始まっている。これらの音は、破裂音でしかも有声なので、怒りとか勢いなどの印象と結びつきやすい。そこで、印象主義的再解釈とでも言おうか、「腹を立てている様子」「相手を叱咤する」というような解釈が生まれ、しかもそれが自然に思われてくるのである。更に「檄を飛ばす」の場合、「全軍に檄を飛ばす」なんていう使い方からもわかるように、闘争場面で使われるのが普通であるし、「激」という字とよく似ていることもあって「激励」との連想も働く。そうすると、「自分の意見に同意を求める」という部分よりも「行動を促す」の方が意味解釈の中でクローズアップされ、「頑張れ!」「しっかりやれ!」という解釈の方が自然に思われてくる。その結果、「檄を飛ばす」=「同意を求める」だよ、なんてあらためて言われても、むしろしっくり来ないような感じになってしまうのである。

以上の例は、固定した語句の意味解釈の問題だが、形態の変化が絡んでくる誤用もある。今日、若者の間ではすっかり定着し、年配者にもかなり浸透してきている誤用の例に「なにげに」というのがある。これの本来の形は「何気なく」であり、分析的に意味解釈すれば「何の気もなく」= without paying attention ということである。それゆえ、本来なら「なにげ」だけでは意味をなさない。ところが、その一方で、「悲しげ」「寂しげ」「意味ありげ」などのように、形容詞や動詞に「げ」(=“様子”)という接辞をつけることで新たな形容詞(教科書文法では「形容動詞」)を作り出すことができる。そこで、同じ「げ」という部分が現れるということから、「なにげなく」が非分析的に(つまり意味の複合構造を考慮することなく)再解釈されると、「なにげ」だけで「何気ない」の意味を持つように思われてくるのである。これに副詞的な働きをさせるために「に」をくっつければ「なにげに」の誕生ということになる。「さりげなく」から来た「さりげに」という言い方もあるらしいが、これも「さありげなく」=「そういう素振りを見せずに」という分析的解釈がなされなくなった結果であろう。

日本語の例ばかりを挙げたが、英語にも似たような例がある。「~せずにはいられない」という意味の can't help doing という熟語があるが、これが同様の意味を表す can't but do という古い熟語と合体して、can't help but do という形で使われているというものである。(英語学の方では混成(blending)という名前で知られている。)これも、これらの熟語の help が「避ける」「防ぐ」という意味であり、but が except の意味で使われているということを知っていれば、can't help doing と can't help but do では意味が逆になってしかるべきだ、ということがわかるはずである。ところが、そういう個々の単語の意味を踏まえた上での分析的な解釈がなされなくなると、「can't help but do でもありかな?いや、むしろこの方が最後の動詞が原形になるので使いやすいかも」なんてことになって、何となくOKという結果になっているのであろう。

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