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言語規範と言語表現

言語の表現過程の中で最も本質的な構造は、対象指示の構造の中で述べたように、対象を類の認識(=概念)で捉え、それに一定の種類の音声や文字(言語表象)を対応させるというものである。(これを、時枝誠記や三浦つとむは「言語表現の過程的構造」と呼んだ。)そして、この、概念を介した、対象と言語の対応関係が安定して成り立つためには、どの概念にどの種類の音声・文字が対応するかという取り決めが社会的に共有されていなければならない。この共有認識のことを、かのソシュールはラング(langue)と呼び、個々人が特定の場面で発する具体的発言(言語使用例)であるパロール(parole)と区別した。ラングとは、言語の表現・理解の際に参照するお手本・雛形のようなものであり、これに従って表現・解釈を行なうことにより、話し手は聞き手に表現内容を伝えることができるのである。

言語を考察する際にラングとパロール(に相当するもの)の区別をすること自体は正当であり、理論的枠組や定義の仕方の細部に違いはあれど、その後、

  • チョムスキー: 言語能力(linguistic competence)と言語運用(linguistic performance)
  • 三浦つとむ: 言語規範と言語表現
  • ラネカー: 言語慣用(linguistic convention)と言語使用(usage event)

というような形で同様の区別が提唱されている。このうち、三浦とラネカーの案には内容面から見て実質的な違いがほとんどなく、また、私自身もこれが正しい理論的区別の仕方であると考えているので、以降、ここでは三浦の「言語規範」と「言語表現」という用語を踏襲して話を進めることにする。(しかし、これは三浦の概念をそっくりそのまま踏襲するという意味ではない。)

上に述べたように、言語規範は概念と言語表象の結びつきに関する一般的な取り決めであるが、これは規範という社会的共有認識の一種であり、それには個人の認識の一部であるという個人的な面と、社会の中で共有されている認識であるという社会的な面が存在する。従って、個人的側面と社会的側面の両方から言語規範の特質を把握しておく必要がある。

言語規範は、それ自体としては、個々人の頭の中に知識として存在している。しかし、言語規範は我々が通常「知識」と呼んでいる明示的な(つまりその内容を明瞭に意識することができる)認識形態とはその性質をいくらか異にしている。それは、ほとんど無意識のレベルで働く知識、正確には技能として働く知識として存在しているのである。これは、我々の第一言語(母語)の知識がどのように発動するかを反省してみるとよくわかる。我々は第一言語でコミュニケーションを行う場合(特に話す場合)、ある対象を表すのにどの単語を使うか、またどのような文構造を用いて内容を表現するか、といったことを深く意識することはほとんどない。伝える内容を対象として明確にイメージ化できれば、それをどのような言葉で表現するかは、ほとんど自動的に決まってくるかのように思われる。また、逆に、「どうしてここで助詞のガではなくハを使ったのか?」などと尋ねられても、その理由をはっきりと答えることなどできないことが多い。これは、言語規範が技能(途中の過程の詳細をほとんど意識化せずに半自動的に発動する能力)として働いているからである。このようなタイプの知識を技能性知識と呼ぶことにしよう。

第一言語(母語)の言語規範は、各個人が成長過程で言語使用の実践を通じて自然成長的に習得していくのだが、ここには重要な問題が二つある。一つは、言語習得機構の生得性の問題である。人間は、通常生まれてから数年間で第一言語を操る基礎的能力を習得し、特に、文法を駆使して統語構造を構成していく能力に関しては到達レベルに個人差があまり見られない。しかも、それを(外国語学習の場合のように)単語や文法の系統立った学習を通じてではなく、生活の中での言語実践を通じて身につけてしまう。逆に、言語規範をこのように自然成長的に身につけられるのは幼児期だけのことであり、これを逃すと同様な形での習得は不可能になってしまう(臨界期の存在)。このことから、幼児の言語習得を可能ならしめるような何らかの遺伝的な仕組が存在する、と考えることは妥当であると思われる。ただ、その言語習得機構がどのような中身を持っているかについては、今のところまだよくわかっていないが、一つ言えることは、幼児においては認識世界(世界像)の構築と第一言語の習得が、言わば手に手を取って進んでいくわけだから、言語習得機構があるとすれば、認識能力と言語能力の相互促進的発展を総合的に保証するような仕組になっていなければならないはずだ、ということである。

言語規範習得をめぐるもう一つの問題は、同じ言語共同体に属している者どうしであっても、各個人の頭の中の言語規範が、すべてぴったりと同じになるということは通常ない、ということである(i.e. 言語規範における個人差・個人方言(idiolect)の存在)。あくまで、日常のコミュニケーションを通じて、支障のない程度に共通化されているだけである。それゆえ、単語に関する知識に個人差があることは言うに及ばず、連語・慣用表現・構文などに関しても運用能力や許容度に個人差が出てくることがある。また、語彙の面について言えば、日常生活を超えるようなレベルの事柄(政治・経済・科学・歴史 etc.)に関する語彙の知識は、個々人の教育程度・読書量・人生経験などに大きく左右される。そのため、学問や政治や哲学など抽象的で込み入った内容の事柄について議論すると、相手と自分で同じ言葉について定義が食い違っていたり、イメージが大きく異なっていたりすることがよく起こるのである。

そもそも一口に語彙と言っても、その習得過程・習得目的に応じて性格を異にする複数の領域がある、という点にも注意すべきである。

語彙の構造

一般的な個人は、まずは日常生活を通じてその中で接する人・物の名前、動作の名前、物の性質や形状の呼び方などを学んでいく。そしてそれらが、その言語の最も基本的な語彙(主に文法的な働きをする機能語など)を含めた日常生活語彙の領域を形成する。更に、学校教育や職業教育など大人(一人前の社会人)になるための教育課程を通じて、知的に高度な内容の表現・理解を行なうための抽象性の高い語彙をマスターしたり、各種専門分野に特有の語彙を身につけていくことになる。もちろん、そこで語彙知識が完成し固定化してしまうというわけではない。人生経験の蓄積、生活形態の変化、社会全体の変化などに伴い、個人の持つ語彙知識も、部分的にではあるが、一生変化し続けるのである。

また、社会全体でも言語規範は変化していくことがある。近代化以前の社会においては、書物やその他のメディア、統一的学校教育などが存在せず、一般人の言語習得は、日々の生活の中での言語実践を通じた自然成長的習得に完全に委ねられている。そのため、言語規範に対する固定化力が弱く、発音・語義・文法が時代とともに変化するということがしばしば起こる。このことは、どの言語の歴史を見ても確認できる事柄である。

その一方で、社会が近代化していくときには、もっと人為的な形の言語規範の変化が起こる。それは、西欧の近代化や明治日本の近代国家建設の過程を見てもわかるように、それまで政治的・経済的に緩やかな統合下にあった複数の地域社会が、中央政府による集権的権力構造の中に組み込まれていくという過程を必然的に辿ることになるからである。この過程において、学校・役所・軍隊・警察・裁判所など各種近代的社会制度が国家全体にわたって均一的に整備されると同時に、それを支える基盤の一つとして、言語規範の統一が図られるのである。その統一過程では、典型的には、国家領域内の最有力地域の方言を基にした標準語が書記言語・知的表現言語として整備され、学校教育や公的施設、各種メディアでの使用を通じて普及させられていく。(この言語統一過程においては、その陰の面として、地域間の言語差解消の大義の下、方言やマイノリティー言語の差別・弾圧が行なわれることがしばしばである。)

また、社会の近代化においては、新たな制度・事物が急速に導入されるため、それらを表すための新語創出も急ピッチで行なわれることになる。これは、日本の近代化過程における西洋語の翻訳や新語創出の例を見ればよくわかることである。更に、新聞・ラジオ・テレビ・インターネットなどメディアが社会全体を覆うようなレベルで整備されてくると、それを通じて新語や流行語などが言語共同体全体に極めて短期間の内に広まるというようなことも起こる。これも今日の我々の生活を振り返ってみれば自明のことである。

このように、言語規範は、言語的コミュニケーションを支える基盤としての固定性・安定性を備えていなければならない一方で、個人的・社会的の両面において、時には緩やかに、時には急速に変化していく契機を備えているのである。

更新情報

2016年9月12日NEW
ページデザインを一新しました。
2013年7月1日
言語論下のページを改訂しました。
2009年11月23日
認識論下のページを改訂し、社会と文明共有認識を追加しました。
2009年11月12日
子育て認識の自由性を追加しました。
2009年11月9日
認識論を追加しました。