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古賀恵介の部屋

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概念の構造

概念とは類の認識

人間が、概念という特殊な認識を駆使できるのは、人間に高度な抽象能力が備わっているためである。人間は外界の様々な事物の一つ一つをそれそのものとして見るのではなく、「どのような類(=グループ)に属するか」という観点から整理分類して把握する。そして、同じグループに属する事物は、その一つ一つには細かな違いがあっても、大まかな共通性を捉えて、「同じもの」として把握するのである。この個々に違うものの中から共通性を見出し、それによって対象をグループ化する能力のことを抽象能力と呼ぶのだが、人間の場合、それが高度に発達している。その抽象能力を駆使して、類似した諸々の対象をひとまとまりの仲間(=類)として把握したところに成立する認識が概念である。

概念成立における抽象過程

個別言語間での概念内容のズレ

概念を形成するということは、世界の中に存在する様々な事物を何らかの類似性に従って“仲間分け”するということなのだが、では、その“仲間分け”の基準はどういうものかというと、最終的には「何らかの類似性を持つ」ということでしかない。従って、日本語や英語といった個別言語の語彙の概念が形成されるにあたっての“仲間分け”の仕方は、その言語共同体の中で歴史的に形成され慣用化されたものでしかない。従って、言語が異なれば、その仲間分けの仕方にズレが生じることがあるのである。

個別言語間での概念内容のズレ

具体的にどのようなズレが生じるかについては、以下の雑記の記事を御覧いただきたい。

概念・言語の抽象性

また、概念は類認識であるから、個々の対象が持っている個別的・具体的な特徴を削ぎ落として(捨象)、共通性を抽出する(抽象)ことで成立する。従って、対象が持つ感覚的な特徴(e.g. 形、色、におい、音 etc.)はほとんど捨象されてしまう。言語は概念を介した表現であるから、言語が直接に伝えることができるのは類としての共通性(類情報)のみということになる。しかし、正にその特性の故に、物理的な特徴をほとんど備えていないような対象でも簡単に指し示すことができるようになり、高度な抽象性を持った内容を表現することができるようになったのである。例えば、「愛」「勇気」「文化」「政治」「経済」「学問」のような語の表す対象は、単純な物体として存在しているものではないので、それらを絵に描いてみよ、と言われても途方に暮れるだけである。が、言語ならば文字通り“一言”で表すことができる。これは、言語によるコミュニケーションの持つとてつもない長所である。

ところがその一方で、「長所は短所なり」という言葉もあるように、言語の長所である抽象性が逆に仇をなすこともある。言語が直接に伝えることができるのは、概念レベル(つまり類のレベル)の情報だけであり、それ以上具体的なことは別の形で伝えるか、または、言語を理解する側(聞き手・読み手)の方で補うように努めねばならないのである。

しかし、我々が日常生活で言語を用いる際には、そのようなことを特に意識することはほとんどない。例えば、私はこの文章を自分の研究室のパソコンで書いているのだが、「研究室」や「パソコン」といった単語は、その対象物の具体的なあり方(e.g. 私の研究室がどこにあって、どのくらいの広さで、どのくらい雑然としているか、また、パソコンはどのメーカーのどの機種なのか)を何も伝えていない。にもかかわらず、普通の日本人であれば「私はこの文章を自分の研究室のパソコンで書いている」という文の意味がわからない、と思う人はまずいないであろう。対象の個別的・具体的な情報が何も伝わってもいないのに、わかったつもりになってしまう、あるいは、わかるのが当然と思ってしまうのである。これは喩えてみるならば、海の上に頭を出している氷山の一角を見て、その姿だけで何となく氷山のすべてを見て取ったと思い込んでしまうようなものである。本当は、水面下の巨大な拡がり、つまり対象の個別的・具体的な情報を、受け手の方が言語とは別の経路で独自に補わねばならないのに、である。

言語における伝達過程

親しい者どうしの間での、買い物だとか食事だとかといった日常的な事柄に関するコミュニケーションであれば、このようなことを意識しなくても不都合が起きることはほとんどない。お互い日常生活を通じて共通の事物にたくさん接しているので、そこから具体的な情報を補うことがすぐにできるし、それができなくても、重大事を招いたりすることはほとんどないからである。しかし、ことが日常生活レベルを超えた高度な内容の伝達ということになってくると、そうもいかなくなってくる。学術的書物・講義の理解や古典文学・外国文学の深いレベルでの鑑賞などでは、やはり、言葉を概念レベルで受け取るだけではまったく不十分なのであり、言葉の“背後”にある対象の具体的な姿を受け手の頭の中にできるだけ忠実に再現すべく、様々な工夫・努力がなされなければならないのである。にもかかわらず、そのことを明確に意識している人がどのくらいいるかというと、はなはだ心もとない。

※ 言語の抽象性については情報伝達と人間のコミュニケーション(福岡大学総合情報処理センター コラム 『情報の糧』 2008年7月)にも書いたので、合わせて御覧いただければ幸いである。

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