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雑記 2014年6月11日

「情」の話

情報処理センターのコラム『情報の糧』の再録第5弾である。2012年7月に書いたものを手直ししてある。


「情報」は「情」と「報」という二つの漢字の組み合わせで出来ているが、この事実は、実は、誠に興味深いのである。

我々は、普段、「情報」というものを、あたかも人間の心の働きから独立して客観的に存在しているものであるかのように扱っている。「情報」を「やり取り」したり、「売り買い」したり、コンピューターやUSBメモリーに「保存」したりすることは、我々にとってごくごく当たり前のことであり、それを特に不思議なことだとは思わない。しかも、「情報処理」と言えば、現在では実質的にコンピューターでの情報の伝達・保存・加工などの操作を意味する。このことから、「情報」というものが、機械での処理に似つかわしい、何か極めて論理的でカッチリとした形式を持つ物であるかのようにイメージしがちである。

しかし、「情」という字についてあらためて考えてみると、それとは違った面が見えてくる。「情報」とは、情(物事のありさま)を報ずる(知らせる)というプロセスの産物であり、そこには、物事を認識し、それを伝達するという人間の心の活動が介在している。そもそも、人間が認識したり伝達したりする内容には、必ず何らかの形で主観的な解釈が交じるのであって、純粋に客観的な情報などと言うものは存在しない。そして、「情」という字が「りっしんべん」をそなえた字であることからもわかるように、この「情」という字が表すのは、我々の心に映った物事のありさまなのである。つまり、「情報」には必然的に心の働きが含まれるということを、この漢字自体が教えてくれているのである。

しかも、「情」という字のおもしろさはそこにとどまらない。この字から、通常、第一に連想されるものは、「感情」や「なさけ」といった、およそコンピューターでの処理には馴染みにくい心の働きである。もちろん、ヒトの表情や声の調子からその感情のあり方を判断するコンピュータープログラムを作ることぐらいなら、現在ではさして難しいことではなかろう。(実際にあるようだ。)しかし、コンピューター自身が感情を持ち、それに大きく影響されながら様々な処理を行う、などということはなかなか想像しにくい。と言うよりは、世の大半の人々にとっては、むしろ望ましいことではないように思われる。考えても見られよ。感情を持つということは、快・不快、好悪、喜び、悲しみ、怒り、恐怖などの感覚を持つということであり、また、通常の処理過程の中にそれが入り込んで来るということでもある。機嫌が悪かったり、気分が落ち込んでいると頻繁に計算ミスをするとか、嫌いな奴が操作するとストを起こして動いてくれないとか、(人間ならそんなことはよくある話だが)そんなコンピューターではまったく使い物にならないであろう。

そもそも、感情のもとになっている“情”的処理というのは、コンピューター的な計算処理とは真反対の性質を持つ物として発達してきた心の働きである。物事を細かく分析し、論理的に答えを導き出して判断するというのではなく、ある状況に対して、細かい分析や論理的思考をすっ飛ばして一気に決断するという、短絡的な処理過程なのである。このような処理過程が発達してきたのには、進化的にそれなりの理由があるのだが、それはともかく、そういうプロセスを表す漢字が、コンピューターの処理対象を表す「情報」という単語の一部を担っているのである。

日本語の味わい深さというべきであろうか。

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