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雑記 2010年4月5日

金田一の日本語動詞分類 2

前回は、金田一の動詞分類のうち、瞬間動詞と継続動詞について、主にテイル形との結びつきを中心にしてお話をしたが、今回は第四種の動詞について取り上げてみよう。

  • 第四種の動詞: 時間の概念を含まず、ある状態を帯びることを表す。
     そびえる、優れる、ずば抜ける、ありふれる、馬鹿げる、似る、etc.

この種の動詞の特徴を一言で言うなら、動詞らしくないということである。そもそも、意味からしても、事物の形状や特性を表しているので、その中に「対象が動いている」という感覚は含んでいない。つまり、普通の感覚でいう形容詞に近いのである。しかし、その一方で、語形や活用の仕方からして動詞であることは確かであり、日本語文法の中で他の動詞と何らかの共通性を持っているのではないか、という予想も成り立つ。では、これら第四種の動詞と他の動詞には何か《動詞》としての共通性があるのだろうか?

実は、これらの動詞は確かに“動き”を表す部分を持っているのである。但し、上に述べたように、対象そのものの動きではない。では、何が“動いている”のか?以前に書いたこちら、フルーツパフェになりますをご覧いただきたい。ここで論じた、話し手自身の認識の変化を対象に投影させて表現する方法、すなわち《主観性の投影》という特殊な表現法がここにも顔を出しているのである。「道が曲がっている」とか「道が伸びている」などという言い方では、実際に道そのものが変化するわけではなく、それを辿る話し手の認識(視点)の動きが、対象である道のあり方の変化であるかのように表現されている。

ちょうどこれと同じことが第四種動詞でも起こっているのである。すなわち「そびえる」という概念が成立するときには、下から上の方へと視点を移動させながら、山や建物などの姿を(何がしかの畏怖の感情を交えて)捉えていく話し手の認識の動きがその背景にある。「優れる」「ずば抜ける」「ありふれる」「馬鹿げる」などにも、対象の性質をある基準に照らしながら何らかの尺度の上で位置づけるという話し手の認識の動きが投影されている。「似る」の場合にも、その裏には、一方と他方を比べながら、その間に類似性を見出していく話し手の認識の動きが存在するのである。

つまり、対象の特性を捉えるということの裏には、様々な考慮を経ながらその判断に至るという話し手の認識の“動き”が存在するのである。ただ、「高い」とか「優秀だ」などの形容詞で表現された場合には、その主観的動きが表には出てこない。ところが、日本語は、その主観的動きを純粋に投影させて表現する動詞を発達させた。それが、金田一が第四種動詞と呼んだ一群の動詞なのである。

従って、第四種動詞は、「道が曲がっている」「道が伸びている」などのようなものとともに、主観性投影動詞と呼ぶべきではないかと私は思っている。ただ、「曲がる」や「伸びる」は元々は対象の側の変化を表す動詞であり、主観性投影はその派生的用法なのだが、それに対して、第四種動詞は、判断を下すという主観性投影用法のみで成り立っている特殊な動詞だという点が異なっている

主観性投影動詞が、単なる状態動詞ではなく、“動き”を表す動詞であることは、その文法的振る舞いに反映されている。まずもって、文の述語になる場合は単純形ではなくテイル形が使われる。

  1. a. 彼の業績は非常に優れている。
    b. ×彼の業績は非常に優れる。
  2. a. 彼の実力はずば抜けている。
    b. ×彼の実力はずば抜ける。
  3. a. そんな話はありふれている。
    b. ×そんな話はありふれる。

日本語は動作動詞と状態動詞を峻別する。「ある」や「いる」のような通常の状態動詞であれば、現在の状態を表すのには単純形が用いられる。それに対して、テイル形を使うのは動作動詞であり、意味は、その動作の《進行中》または《完了後》になる。1 ~ 3 は、話し手の認識の動きが完了して、それぞれの特性に関する判断がなされたということを表しているのである。これはちょうど、対象の瞬時的変化を表す動詞がテイル形をとると、変化完了後の状態を表す表現になるのと意味構造的に同じことなのである。

  1. その男は死んでいる。
  2. その部屋には灯りがついている。

また、主観性投影動詞が名詞を修飾する場合(連体修飾)は、単純形ではなくタ形をとる。

  1. a. 優れた業績
    b. ×優れる業績
  2. a. ずば抜けた実力
    b. ×ずば抜ける実力
  3. a. ありふれた話
    b. ×ありふれる話

これは、話し手がそれぞれの判断に至った(つまり認識の動きが完了した)結果を表すことで、形容詞を用いたのと同じ認識を表すことができるためである。(e.g. 優れた業績 ≒ 優秀な業績) 但し、「そびえる」は少し違ったパターンになる。

  1. a. 遥か彼方に山々がそびえている。
    b. (?)遥か彼方に山々がそびえる。

「そびえる」は、他のものと違って、判断を下す動きよりも、高いものを下から上へと眺めて上げていく視点の動きを重点的に表す動詞である。従って、1-3 のような「判断を下す」という認識の決定的変化よりも、高さを捉えていく認識の連続的な変化が表される。その変化を普通に状態化する場合はテイル形をとって「そびえている」となるが、その他に、そのままの形で状態動詞化して表すこともできないわけではない。その場合、「山々がそびえる」のような単純形表現にすることができる。

  1. この周辺は阿武隈山地の中央部で、同山地の中では最も高い山々がそびえる。(ゆうゆうハイキング
  2. 進行方向左側、樹海の向こうに阿寒の山々がそびえる。(カネラン峠

ただ、通常の動作動詞(e.g. 立つ)の場合もそうなのだが、テイル形にせずに単純形のまま状態表現に用いると、文体的に独特の緊張感を生み出すことになる。

  1. まだ燈の點かぬ仁丹がものものしげに屋根の上に立つ。(京阪見聞録 木下杢太郎

これは、おそらくは、古語において日本語に進行表現を峻別して表現する習慣がなかったことと関係があると思われるが、それはまた別の機会に考えてみたい。

「そびえる」は、述語用法の場合だけでなく連体修飾の場合にも、他の主観性投影動詞とは異なった振る舞いをする。

  1. 窓際の籐椅子に腰かけて、正面に聳える六百山と霞沢山とが曇天の夕空の光に照されて映し出した色彩の盛観に見惚れてゐた。(雨の上高地 寺田寅彦
  2. その上に聳えた山には見ごとに若杉が植ゑ込んであつた。(鳳來寺紀行 若山牧水

上の例にあるように、「そびえる」と「そびえた」の両方が可能なのである。個人的な語感の違いを言えば、「そびえる」の場合は、山を真正面に見据えて眺めている感じを捉えているのに対して、「そびえた」は(ちょっと不自然な言い回しの感じはするが)、山の上まで一度視線を走らせた上で、その様を描写しているように思われるのだが、いかがなものだろうか。

以上述べてきたように、金田一の分類による第四種動詞とは、主観性投影用法のみを有する特殊な動詞である。その特異性ゆえに、「そもそも動詞ではない」などと言われることも多かった“はずれ者”であるが、認識の主観の側の動きというものを意味構造の一部として設定すれば、この特殊な動詞も《動詞》の仲間として認めることができるのである。

補 足 1

前回の記事に挙げた第四種動詞には、もう一つ「主だつ」というのがある。「主だつ」は述語用法が退化してしまって、連体修飾の形でしか用いられない“動詞”である。

  1. ×メンバーが主だつ。
  2. ×メンバーが主だっている。
  3. 主だったメンバー

日本語には、他の品詞から変化して連体修飾専用になった語があって、それらを一般的な国文法では連体詞と呼んでいる。

  1. 大した度胸
  2. あらゆる種類
  3. 或る
  4. おかしな

上の「主だった」もその一種と考えればよいであろう。

補 足 2

もう一つ面白い例として「違う」「異なる」がある。これらは、他の第四種動詞と違って、述語用法で単純形とテイル形の両方が使えるのである。

  1. AとBは{違う・違っている}。
  2. AとBは{異なる・異なっている}。

それに対して、対義語の「似る」は、(特性叙述の)述語用法ではテイル形しか使えない。

  1. AとBは似ている。
  2. ×AとBは似る。(cf. 子は親に似る(ものだ)。)

これは、「違う」「異なる」が、主観性投影の“動作”動詞としての用法と、単純な状態動詞としての用法の両方を発達させたためであろうと思われるが、「似る」に何故同じような二重性が見られないのかは、よくわからない。因みに、状態表現に単純形とテイル形の両方を用いることができる動詞は他にもある。(e.g. わかる・わかっている、要する・要している、読める・読めている)

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