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雑記 2009年10月18日

someone と「誰か」

英語の someone は、日本語でよく「誰か」というふうに訳されるが、その意味は必ずしも一致しない。

日本語の「誰か」は、対象となる人物の身元が話し手にわからない場合に用いる。つまり、対象の人物を「話し手にとって未定」という関係で捉えて表現する語である。それに対して、英語の someone は、対象となる人物の身元を聞き手が知らない(だろうと話し手が思っている)場合に用いる。つまり、「聞き手にとって未定」という関係で対象となる人物を表す語なのである。

従って、someone は、対象となる人物の身元が話し手にとってわかっている場合も、わからない場合も使用することができるが、「誰か」は、通常、後者の場合にしか用いられない。

  1. a. Someone must have stolen my wallet.
    b. 誰かが私の財布を盗んだに違いない。
  2. a. "What are you doing here?" "I'm waiting for someone."
    b. 「こんなところで何してるの?」 「??誰かを待ってるんだよ。」
    c. 「こんなところで何してるの?」 「人を待ってるんだよ。」

1 のように対象の身元が話し手にとってわからない場合は、someone を「誰か」と訳しても何ら問題ないのだが、2 のように、対象の身元が、話し手にとってはわかっているが、聞き手にとってはわからない(だろうと話し手が思っている)場合には、someone を「誰か」と訳すると日本語としておかしなことになってしまう。日本語では、そういう場合は「人」という名詞を用いるのが普通である。

someone と「誰か」のこのような違いは、それぞれの語の中に入り込んでいる some と「誰」の違いに起因している。

some は、言うまでもなく、元々は不定の数量を表す数量詞であるが、もう一つ、対象の個別性情報の不定性(平たく言えば、どの~なのかが聞き手にとって不明であるということ)を表す用法がある。

  1. I'm looking for some books.
  2. I'm looking for some person.

3 は通常の数量詞としての some の使い方であるが、4 の some person は「話し手は知っているが、聞き手は知らないであろう或る人物」という意味であり、a certain に相当する some の用法である。(ついでに言えば、日本語の「或る」という語の意味構造も基本的にこれと同じで、対象の身元が話し手にとっては既定であるが、聞き手にとっては未定であるという関係を表しているのである。)この 4 の用法の some と 不定名詞 one が融合してできたのが someone であるため、someone は、「対象が聞き手にとって不定」という関係を第一義とする不定代名詞となったのであろうと思われる。

これに対して、「誰か」の意味構造は、その中に入り込んでいる代名詞「誰」の意味が元になっている。「誰」は、「対象指示を特定の対象に固定しない」、つまり「特定の人物を指し示すことはせず、どんな人物でも表す可能性がある」という関係のみで対象を表す語である。対象指示を固定しないのだから、典型的には、疑問詞疑問文で使われ、肯定文では用いられない。

  1. a. ×ドアの外に誰がいる。
    b. ドアの外に誰がいるの?
  2. ドアの外には誰もいない。

また、6 にあるように、取り立て助詞の「も」と結び付いて全否定の否定文に使うこともできる。

これが助詞の「か」と融合した「誰か」という形になると、「対象指示の固定だけはするが、その人物の身元は話し手にとっては不明である」という関係で対象を表すことになる。この結果、「誰か」は「対象が話し手にとって不定」という関係を第一義とする不定代名詞として機能するのである。「誰か」は、一応、固定的対象指示を行なうので、肯定文に用いることもできる。

  1. ドアの外に誰かがいる。
  2. ドアの外に誰かがいるの?
  3. ?ドアの外に誰かがいない。

ついでに言うと、9 のようにそのままの形で否定文に用いると、おかしな表現になってしまう。何故なら、話し手にとって不定の人物を念頭に置いた上で、その人物が「~ない」ということは(あり得ないことはないが)あまりないからである。

「誰」と結びついた助詞の「か」の起源についても興味をひかれるところではある。私は国語史の専門家ではないので、確定的なことは言えないが、「か」の大本を辿れば、当然、疑問の終助詞「か」まで行き着くであろう。しかし、「か」は、古語において、「誰か故郷を思わざる」のような、係り結び(強調構文・焦点化構文)を導く係助詞としての用法を発達させており、ここから何らかの形で、「対象の身元は不定のまま、対象指示の固定だけを行なう」という「か」の用法が発達してきたのではないかと考えられる。この問題は、関連事象を精査の上で、機会を改めて考えてみたい。

補 足

あらためて言うまでもないが、ここで論じたことは、英語では、somebody, something, somewhere, etc. 日本語では、「何か」「どれか」「いつか」「どこか」などの類似表現にも当てはまる。また、「誰」のところで述べた対象指示の非固定性という特性は、英語の any などの意味構造に見られる指示の任意選択と(細部の違いはあるにせよ)基本的に共通するものである。(この点に関しては、yet の不思議否定極性表現も参照のこと。)英語の some と any の違いは、概念的にすっきりと捉え難いところがあるが、対象指示の固定性の有無という形で区別するとわかりやすいのではないだろうか。

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