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雑記 2015年1月21日

人間における情報処理の二重化 ―― 意識的処理と自動的処理

情報処理センターのコラム『情報の糧』の再録第7弾である。2014年7月に書いたものを手直ししてある。


以前のコラムで、人間の心身に見られる情報処理の多層性のことを書いたのだが、今回はそれに関連する、人間の情報処理活動の別の面について紹介したい。前のコラムでは、動物の情報処理が体内情報処理と外界情報処理の二系統に分かれ、後者において意識が出現することで多層性が形成されるということを述べた。その一方で、体内情報処理の大半は自動化された反応である、ということも簡単に紹介した。今回は、この両者の関係についての話である。

実は、意識を通じた処理と自動化された処理は、人間(および動物)の中で単純に二分されているわけではないのである。

確かに、体内には、意識とはほとんど切り離された形で“ほぼ完全自動化”している処理もある。内臓で消化活動が行われたり、心臓が規則的に拍動し、それにより血液が全身の血管に送り出され、その血液の循環を通じて様々な栄養や酸素が体中に運ばれたりする活動は、意識によって直接コントロールすることはできない。(もっとも、体を激しく動かせば、心臓の鼓動は早くなるし、血圧も上がる。そのようにして体内処理過程に間接的に影響を与えることはできる。)

しかし、呼吸はどうであろう。我々は、普段、一息一息を「呼吸しよう!」と思ってやっているわけではない。特に意識しなくても、息を吸ったり吐いたりしている。(というか、そうしなければ、眠って意識が休んでいる間に呼吸ができなくて、死んでしまう。)しかし、内臓の働きの場合と違って、意識して息を深く吸い込んだり吐いたりすることもできる。つまり、呼吸は自動的にも意識的にもコントロールすることができるのである。これは、自動的処理と意識的処理が相互補完的に働いているケースである。

更には、意識的処理と自動的処理が組み合わされて一体となって遂行される活動もある。例えば、我々は、ふつう、歩くときには、どの瞬間にどちらの足を前に出すか、などということを意識して考えることはしない。どこに向かって歩こうかといったことを意識しているだけである。(いや、考え事をして歩いているときなどは、それすら意識しない。)つまり、歩く方向や距離は意識しても、歩く動作の細かいプロセスは体が自動的に制御してくれているのである。実は、我々が日常的に行う身体的動作(歩く、走る、立ち上がる、座る、起きる、寝る、etc.)のほとんどは、このように、大枠としては意識的に(主に大脳で)、中身の細かい部分は自動的に(主に小脳で)、処理されて制御されているのである。

実は、私の専門分野である言語についても似たような構造が見られる。我々が何かの話をする場合、何の話をするかとか、それをどのような構成で話すかといったことは意識するが、どの単語を使うかとか、どのような構文を使って話すか、それをどう発音するか、などといったことはほとんど意識することがない。あるイメージを思い浮かべれば、それから先は、ほぼ“自動的”に言葉に置き換えられていくように感じられる。ある言語を母語として、或いは母語と同等に、使いこなすことができるということは、そういうことなのである。私は、以前のコラム「『できる』ことの2重構造」で、ことばは単に知識として学んだだけではあまり役に立たず、技能化しなければならない、と書いたが、「技能化」するとは、最初は意識的処理としてしかできなかった活動を、訓練を通じて自動的処理として行えるように変えることなのである。

そして、これは言語に限ったことではなく、我々が日常生活から勉強・仕事に至るまで、多くの場面で行う活動についても言えることである。即ち、能力を身につけるということのかなりの部分は、意識的処理から自動的処理へ、という変化を我々の心身の中に作り出すことに他ならないのである。

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